中華民族の始祖、黃帝の陵墓を訪ねて
ソース:新華社作者: 2023-05-09 10:24
中國の黃土高原西部、陝西省延安市黃陵県にある橋山は、伝説の皇帝「黃帝」の陵墓とされる。漢代の歴史書「史記」にも「黃帝崩、葬橋山(黃帝崩じ、橋山に葬る)」の記載がある。黃帝は名を軒轅(けんえん)といい、中國で民族の礎(chǔ)を築いた文明の先駆者とされ、歴代王朝でも敬慕されてきた。黃帝陵も中華民族の祖陵と見なされている。
軒轅廟の入り口に立つ「黃帝手植柏」。(3月22日撮影、黃陵=新華社記者/孫正好)
黃帝陵の傍らには軒轅廟があり、創(chuàng)建は前漢の始めとされる。黃帝陵管理局ガイドセンターの郭嬋(かく?せん)副主任は「漢が建國されると、高祖劉邦(りゅう?ほう)が皇帝陵の傍らには廟宇を建てると規(guī)定したため、黃帝陵にも軒轅廟が建てられた」と説明した。
軒轅廟の入り口には「黃帝手植柏」と呼ばれるコノデカシワの古木がある。樹高19?4メートルで幹回りは11メートルを超す。樹齢は5千年余りで「中華第一柏」の譽(yù)れ高く、黃帝の手植えと伝わる。
軒轅廟の「人文始祖」大殿はかつて黃帝を祭った正殿で、中央に黃帝の全身浮き彫りレリーフが安置されている。山東省の武梁寺に殘る後漢時(shí)代の畫像石を基にしており、墨玉(黒い軟玉)に彫刻されている。高さ3?9メートル、重さ11トンで、黃帝は質(zhì)素な衣服、真剣な面持ちで東に向かって歩き、左手で前方を指し、顔は西を振り返る姿勢(shì)をとっている。
黃帝は古代中國の部族連合の指導(dǎo)者であり、治世中に衣服や船、車を作り、養(yǎng)蠶を教え、數(shù)々の穀物や草木の種をまいたとされる。徳によって人々を感化して諸侯を従え、賢者を登用し、岐伯(ぎはく、古代の名醫(yī))にはあらゆる薬草を試すように命じて、醫(yī)者として人々の病気を治療させ、倉頡(そうけつ)には鳥の足跡から文字を作らせた。臣民とともに中國5千年の文明史を開いた。
橋山に登ると黃帝陵園がある。陵前の祭亭は明清時(shí)代の建築で、中央には現(xiàn)代中國の文學(xué)者?歴史家?政治家の郭沫若(かく?まつじゃく)が揮毫した「黃帝陵」碑がある。祭亭の後ろが黃帝の陵墓で、高さは3?6メートル、周囲は48メートル。青れんがで囲いをした環(huán)丘墓で、正面の石碑には黃帝が竜に乗って天に昇った伝説に由來する「橋山竜馭」の四文字が記されている。
黃帝陵園には漢代の「漢武仙臺(tái)」遺跡も殘る。高さ13?5メートル、上部の周囲22?5メートル、下部の周囲120メートルで、今も古風(fēng)で雄渾な風(fēng)貌を殘す。前漢の元封元(紀(jì)元前110)年に武帝が北方を行幸した際、18萬の兵士が長衣に土をくるんで運(yùn)び、晝夜を徹して築いたという。
漢の武帝以降、中國では黃帝の祭祀(さいし)活動(dòng)が盛んになった。唐の太宗(李世民)は長安南郊で毎年黃帝を祭り、宋元時(shí)代になると黃帝陵廟での祭祀がますます重んじられた。明の皇帝が専門の役人を派遣して黃帝を祭った回?cái)?shù)は14回に上り、清代では規(guī)模も大きくなり、記録に殘るだけでも30回の祭祀が行われた。
現(xiàn)在では、軒轅黃帝公祭典禮が毎年の清明節(jié)(舊暦春分から15日目)に行われている。2006年には第1次國家無形文化遺産リストに登録された。
編集:董麗娜
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